フリースクールはらいふさんにお邪魔してきた件 - 後編 -
縁側からピザ窯とウッドデッキが見える。うめきたや道頓堀などを思い浮かべると大阪とは思えない風景が広がる「フリースクール はらいふ」さんにお邪魔した。前回は豊かな自然の中で自己決定して生きる「はらいふ」らしい日常をお伝えさせてもらった。
その上で、今回はもう少し踏み込んだテーマを伝えたい。
「人のつながりの中で生きる」ことについてだ。
▼ちょっとした諍い
みんなでボードゲームをしていた時のことだった。ゲームの性質上、一人の子に疑いがかけられる展開になった。その子が「いっつも俺ばっかり疑われている」と訴えた。周りはゲームの流れなので、悪気なくやっていたがそれでもその子にとっては尊厳を侵害されたと感じたようだった。
その声が室内に響き、誰が何をいうでもない沈黙が訪れる。目線を下に落とす子もいれば、カードを見つめる子もいる。僕はといえば、居心地の悪さと戸惑いを感じていた。しかし、そのことを「解決」しようとか「止めよう」と問題に対処することを誰もしなかった。
ただ、それは不思議と調和しているように見えた。
その時間を共にすることをお互いが了解しているようだった。
▼自己決定の狭間で
突然だけど、このことを考える上で、例え話から始めたい。例えば、僕が自分のことを自分で決められるからといって目の前にいる誰かを叩いたり、傷つけたりしてもいいのだろうか?
直感的にはNOだろう。
しかし、もしかしたら、人を傷つける自由もあるかもしれない。なぜなら、みんなが自由だからだ。傷つけられる側だって悪い話じゃない。自由に逃げることもできるし、やり返すこともできる。場合によっては仲間を連れてきて返り討ちにすることもできるからだ。お互いが自由に決められる中なのだから、それによる不利益は個人の選択の結果であり、自己責任である。
そうもいえるだろう。
さっきの諍いに話を戻すと、その子の意思でゲームに参加したのだから自己責任かもしれない。でも、仮に、一定筋が通っているとしても「自己責任だから、勝手に怒ってる方がおかしい」と割り切ることに僕は違和感を覚える。確かに、人間関係の問題に取り組む方法の一つは責任の所在を明確にし、「解決」するものだろう。しかし、異なるアプローチの可能性を信じてみたい。
それは「場がその感情を許容し、共に変容すること」だ。
▼良質な関わり合いの場
話をゲームの時に戻そう。僕の目から見るとその時、誰かのせいにして解決しようとはしていなかったと思う。その居心地の悪い感じも受け止めつつ、それぞれが何かを考える。どんな感情があってもいいし、その感情が表に出ることで感情を出した本人も、それを目撃した周りもその出来事に関わっている。その場をみんなが受け入れるというやり方でコミュニティが変容に向かっているように僕には思えた。
結果的に時間が流れ、その場は終わって行った。れいさんの努力もあり、帰り際にはそれぞれが一緒に過ごしていた。暮らしの中に当たり前にある小さな諍いから彼らは多くを学んでいるように思えた。
「なんか一個でも今日楽しかったと思ってもらえたらいいなと思ってやってる。」
今、そんなれいさんの言葉が耳の奥で残響している。
▼結び
ここまで繰り返したきた「自己決定して生きる」「人のつながりの中で生きる」はこちらのサイトの「はらいふの思い」で挙げられている。
こちらのサイトでは3つあげられてるので、もう一つ、「幸せなこども時代を生きる」についても少し触れておこう。
前編でも述べたように、こちらのフリースクールでの日々は暮らしの中に学びがある。僕にはこどもたちが幸せを感じているように見えた。こどもたちのことについて「みんなすごいオープンに関わってくれるから僕も居心地がいいです」と伝えると「最初からこんなに自由な様子じゃなかったで」とれいさんは言っていた。
忘れそうになるが、ここにいるのは「不登校」という時間を経てきた子どもたちだった。それぞれが塞ぎ込み、社会と関わることの苦さを経験しているのだろう。支援という言葉はあまり好んでは使わないけど、今日、ここで笑えている子どもたちをみていると幸せな時間ほど支援として効く薬はないのではないかと思う。
思い思い、表現を躊躇うことなく行い、当たり前のように人と関わっているその姿が素敵だった。ここでは学びのために暮らしを消費するようなことはしていない。未来のために今を犠牲にすることもない。今も大切にしながら、その子らしい未来を描いていく。それが「幸せなこども時代」の一つの姿なのかもしれない。
今日も他愛もない暮らしの中に、学びの場が開かれている。
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